英語を学ぶということは、単に文法や「こう言いたい時は、こういうふうに言葉を組み合わせる」ということを学ぶだけではありません。
日本語をそのまま英語にすることが難しいように、英語をそのまま日本語に訳しても、なんだか日本語っぽくない。
その違いとは、いったいどこから来るんでしょうか?
英語と日本語では、文の構造が大きく違うことは言うまでもありませんが、それが「人間関係」や文化的なものに、影響しているんでしょうか?
私自身は、英語を学べば学ぶほど、「言葉にする時に、集中するポイント・気を使うポイントが、英語と日本語では違う。」と感じるようになりました。
それはどういうことか……、私なりの視点で書いてみたいと思います。
大切なことを最後に言うのが日本語?
たとえば、英語の文の形で、日本語と大きく違うところといえば、動詞の位置ではないでしょうか?
日本語:
私は(主語) + いちごのカップケーキを + 食べる(動詞)。
英語:
I(主語)+ eat(動詞)+ a strawberry cupcake.
となります。
基本的に、日本語は『誰が・何が』があって(省略されることも多いけれど)、次に『何を』『どんなふうに』などの言葉が入って、最後に『~する。』『~だ。』という語順。
それに対し、英語では、まずほぼ必ず『誰が・何が』があって、次に『~する』という動詞が来ます。または、『~だ』(= be + 形容詞、be + 名詞)の場合もありますが。そしてその後、『何を』『どんなふうに』と続いていきます。
日本語は、最後の最後でようやく、動詞が出てきて、文が完成します。それに対して英語は、動詞が主語の次にすぐ出てきて、文の中の「重要なこと」が早い段階で明らかになります。
上の例では、あまりインパクトはないと思いますが、これはどうでしょうか?
日本語:
(私は)今日学校の集会で算数の先生からもらった賞状を、お母さんに見せたい。
英語:
I want to show my mum the merit award I got from my math teacher at the assembly today.
どちらも、最終的にこの人は、「お母さんに賞状を見せたい」と言いたいわけなんですが、日本語の場合はよく、上のような言い方をしますよね。その場合、「見せたい。」(=述語)にたどり着くまでに、すべての状況や、物事の詳細を説明しています。
が、英語の場合は、「私は・見せたい」という、文の中で必要不可欠な「主語と述語」がまず最初に来て、次に「お母さんに・賞状を」という、情報として欠かせない「目的語」が次に来て、さらにそれが「誰から、いつどこでもらった……」という付加情報が、後から続きます。
「何・誰が + どうする・どうだ」=『主語+述語』は、文が成り立つ上で最も重要なパーツですが、英語の場合はまずそこから始める必要があるため、結果的に言いたいことが明確になりやすいかもしれません。話す方にとっても、聞く方にとっても。
日本語は、主語と述語の間にさまざまな情報をはさみます。「どうする」にたどり着く前に、「こんなふうで、あんなふうで」という詳細にフォーカスすることになります。
日本人にとっては、そうした「ニュアンス」はとても大切なことですが、英語ではまず、最も言いたいことをハッキリさせることが重要です。
この感覚の違いは、物の表現や見方についても、影響を与えているかも?と思います。
Yes,Noをハッキリさせないのが日本語?
また、別の例として、
日本語:
私はブルーベリーソースがかかったワッフルは好きじゃない。
英語:
I don’t like waffles that have blueberry sauce on them.
日本語では、まず、「ブルーベリーソースについて話しているんだな~」ということがわかり、最後の最後に「好きじゃない」ということがわかります。
でも、英語ではむしろ、「好きじゃない」ということが最初にハッキリとわかる。その後、好きじゃない物の詳細がわかります。
これは、単に文の構造が違う、ということなんですが、この違いが「物事を述べる時、どこに気を使うか」、ということにまで影響を与えているような気がします。
日本語ならば、たとえば、
「ブルーベリーソースのかかったワッフルは、私ちょっと……」
とか、ぼかすこともできます。はっきりと「好き」か「好きじゃない」かを言わなくても、会話が成り立つ。そして、そこそこの感じで次の話題に進むことも、結構あると思うんですね。
特に no というネガティブな結論の場合、それをはっきりと言葉にしないように、気を使いますよね。それとわかるような言葉を重ねて、なんとか相手に伝えるようにする。
でも英語の構造では、それは不可能。
好きではない、という言い方を、“I don’t really like …” とか、“Blueberry sauce isn’t my thing.”(ブルーベリーソースはニガテなんだ)みたいに、やわらかい表現に言い換えることはあるけれど、結局のところ、not と言わなければならない。
like か don’t like かを言わなければ、以降の文自体が成り立ちません。
英語はYes,Noをまずハッキリ示すことが、相手にわかりやすく伝えるために必要不可欠であるのに対し、日本語は時に、Yes,No をハッキリ示さず、相手に手がかりを与えて遠まわしに伝えることが配慮、という感覚があると思います。
誰が、を言わないのが日本語?
もう一つの日本語との大きな違いは、英語では「主語」がとても大切です。
たとえば、
日本語:
オレンジジュース好き?
英語:
Do you like orange juice?
英語では必ず主語が必要ですが、日本語ではこんなふうに省略されるのが自然です。
考えてみると、日本語では、主語が省略されることがとても多いです。
以前、ある外国の人が書いている英語ブログを読みました。海外の人が日本語を学ぶためのブログだったのですが(ちょうどこのブログの逆みたいな!?)、読者のコメント欄に、
「日本で知らない人に道を尋ねたり、話をしたりする時、相手(You)のことを何と呼んだらいいの?」
というものがありました。
無難なのは『あなた』?お店の人なら『~やさん』『店員さん』?「最初に『何て呼んだらいいですか、って聞いちゃえば?」なんて意見もありましたが。
私も「何が良いんだろう……」って考えてみて、「主語を言わない」のが一番ナチュラルだ、と気づきました。
Can you take a photo of us?
同じことを、私達が普段日本語で言うとしたら、
「すみません、写真撮ってもらえますか?」
みたいに言うなぁ~、と。
日本語を勉強している海外の人にとって、You を表す言葉が「あなた」「おまえ」「君」「きさま」「お宅」「郵便屋さん」「駅員さん」「お客さん」「先生」「先輩」「部長」などなど……。色々あって、それらが相手との関係性によって使い分けられる、ということが、とても難しいみたいです。
でも考えてみたら、言い方だけでなく、「主語をハッキリ言う」ことそのものが、場合によってはぶしつけに聞こえてしまうこともあるんじゃないかと思いました。
たとえば、先の例でも、「あなたは私達の写真を撮ってくれますか?」と言うと、日本語してはむしろ不自然に聞こえちゃう。面と向かって「あなたは」と言われると、ちょっと圧迫感を感じてしまうかも?
ここは、英語との大きな違いだな、と思います。
また、日本語の場合、こんなこともあると思います。
たとえば、夫婦で夫が、
(明日はお客さんが来るから)「部屋を掃除しないといけないね。」
と言いますよね?すると後で、言われた妻の方が、部屋を掃除する……。
この場合、主語は、言葉として明確にはなっていません。誰が掃除するか?は、状況や相手との関係性において決まってくると言えます。
「自分が」とも取れるし、「あなたが」とも取れる。ある意味、話す人自身が「誰が掃除をしないといけないのか」を考えなくてもよいのです。「誰かが」やらないといけない。でも誰が?というところは、言う人は責任を持たないわけです。
それを聞いた人が、「自分がそれをやるべきだ」と受け取ったら、やることになるでしょう。言った人は、決して「自分があなたにやれと言った」とは言わないわけです。
日本語では、こういう話し方って、実はすごく多いし、誰もが違和感を感じずに使っていると思います。
そこで、「誰が???」と聞いてしまうと、「空気が読めない人」というふうに言われちゃうんでしょうね。
でも英語なら、
I have to clean up the room.
または、
You have to clean up the room.
(We もありですね)
「誰が」をハッキリ言わなくちゃいけないし、それによって意味が変わってきますよね。
(もしも欧米で、夫が妻に “You have to clean up the room.” と言ったら、「なんで私が!」とケンカになるかも?)
このように、英語で話す時は、常に「誰が?」を意識しなければなりません。日本語ならばそんなに注意を払わなくてもよかったことを、英語で表現する場合は改めて意識する必要があると感じます。
英語圏でも、もちろん、相手の意図を汲んだり、遠まわしな言い方をすることはありますが、「空気を読む」という文化が日本独特と言われるのは、こうした『言葉の構造』も関係しているのかな?なんて思います。
まとめ
日本人にとって、やはり英語を学ぶと言うことは、難しいし、奥が深いと感じます。
私自身は、「英語と日本語の文の構造の違い」と言うのは、言葉による人とのコミュニケーションのしかたや、人付き合いの文化に、違いを生み出している可能性があると思います。
日本語なら、結論(述語)を言う前に、さまざまな情報を入れ込んで、ニュアンスをコントロールしている部分があると感じます。結論そのものよりも、周辺のディテ-ルをいかに述べるか、ということが大事。そこからおのずと言いたいことはわかるでしょ、みたいな。
でも英語では、とにかく明確に「誰が・どうする」という結論を言う必要があります。言葉として、そうでないと成り立たない。
日本人が英語を苦手と感じるのは、もしかしたら、英語で話す時は、自分の発言にあいまいなものを差し挟む余地がないからかもしれません。逆に、明確な言葉によるコミュニケーションを「ラクだ」と感じる人は、英語が苦痛ではないのかも?
……なーんてことを考えます。
私自身が英語を学ぶ中で感じた、完全に個人的な感想ですが、「日本人として英語を話す時に、どんなふうに意識を変えればよいか」の参考になれば、うれしいです。